「助六寿司に集う神と悪魔」の感想と人間の弱さ
はじめに
この記事は魔法少女まどか☆マギカ Advent Calendar 2018の12月15日分の記事になります。
いもむしさんの「助六寿司に集う神と悪魔」を読んで
やはり、「魔法少女まどか☆マギカ」に関しては反応してしまうヨーシャです。
と、アスタルテゆるゆるアドベントカレンダー Advent Calendar 2018の12月9日の投稿でいもむしさんが「助六寿司に集う神と悪魔」という投稿をしていたのを見て、ちょっと感想と私なりの魔法少女の物語に対する解釈を述べてみたいと思っています。
さやかちゃんと人間らしさ
いもむしさんが述べていた、「美樹さやかちゃんがもっとも人間らしいキャラクターである」という点に、私も同意できるところです。
もっとも、人間である以上不完全なものというのは私も実感しているところです。
私はあまり真面目ではない正教会の「ハリスチャニン」1ですが、「完全な人間」ってそれこそイエス・キリストしかいないわけで、それ以外の人間は、たとえ聖人といえどもどこかしらは欠点を抱えていると思っています。
これについては、
ここまで”人間らしさ”という言葉を多用してきたが、それはどういう意味かまとめよう。
それは全く持って完全でない、そして矛盾を抱えているということである。
完全な存在は神であるし、矛盾の無い存在は数式上にしかない。
(「助六寿司に集う神と悪魔」 より、改行は筆者による)
といもむしさんも述べています。
だからこそ、自分は完全な存在じゃないからって自分を卑下することって損なのだと思っています。
正直いうと、私はおっちょこちょいで飽きっぽくて……と欠点を挙げればきりがないわけです。
まあ、そんな自分に絶望しかけてしまうこともあるわけです。
だけど、そんな自分に絶望していても何ができるか、って気になります。
完全なる存在は神様だけであるのだから、自分自身の不完全さはどこかで受け入れる必要があるわけです。
でも、不完全さに甘んじていてはいけないとも思っています。
「完全」にはなれませんが、「完全に限りなく近い不完全」になることはできるわけです。
そうすると、人間とは、「神に近付く、永遠に成長する存在」なのかなと思えるわけで。
永遠に成長を続けていくことって、案外疲れます。しんどいです。
私はプログラマーで物書きなので、いろいろなものを育てていくことが大事なのではないかと思っています。
それこそ、「助六寿司に集う神と悪魔」の最後に書かれている、この言葉をしっかり胸に秘めておく必要があるのでしょう。
我々には奇跡も魔法もない。好きになった人のけがを一瞬にして治すことはできない。
誰もが欲まみれに自分のためだけに動いている。
ときに他人の自己中心的な姿に憤慨するかもしれない。
しかし、それでよいのである。
救いもないこの世では自分をどうすることもできなければ、他人をどうすることもできない。
ただし、我々は見習う事が出来る。
この物語の神は人間を受け止め世界を救った。
ならば、我々もせめてこの世で自分、そして他人の不完全さ、矛盾を受け止める努力をするべきである。
それによって救える少女がこの世にもいるかもしれない。
(「助六寿司に集う神と悪魔」 より、改行は筆者による)
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正教会では独自に訳した独特の用語を使います。で、「ハリスチャニン」は一般的な用語だと「クリスチャン」になります。 ↩